ВЛАДИВОСТОК – родина Владимира ИРИНО

Irino 26 ноября 2010 г. в г. Владивостоке прошел интересный концерт – впервые в нашем городе звучало произведение японского композитора г-на ИРИНО. Перед концертом в зале Приморской государственной филармонии выступила вдова композитора г-жа Рейко Такахаси ИРИНО. Ирино-сэнсэй любезно предоставила нам свои впечатления о концерте, о Владивостоке, городе, где родился ее супруг г-н Ирино в 1921 г. в семье служащего торговой компании «Сузуки», в 2009 г. Ирино-сэнсэй провела мини концерт перед домом, где когда-то родился и жил ее муж. Давние музыкальные связи с Россией она поддерживает в память о своем ушедшем супруге, как пишет она «вместо него», ведь он так мечтал вернуться в город своего детства, но статус «закрытого» города не позволил сделать ему это при жизни.

入野ウラジミル義郎の故郷ウラジオストク

彼は1921年11月13日にウラジオで生まれました。それは父親の入野寅蔵が総合商社「鈴木商店」のウラジオ支店長だったからです。父母は東京お茶の水のニコライ堂のロシア語学院でロシア語を学んでおり、ロシア正教会の信徒でしたから義郎もウラジオの教会で幼児洗礼を受けました。父親は大正12年(1923年)には浦塩日本居留民会の会頭でした。彼等が通った教会は他の建物が建っているそうで残念ながら再建不可能です。

「現代日本の交響楽」演奏会について

入野義郎の作品「小管弦楽のためのシンフォニエッタ」がロシア初演されました。

日時:2010年11月26日 18:00

開場:沿海地方フィルハーモニー大ホール

オーケストラ:太平洋交響楽団

指揮/音楽監督:ミハイル・アルカージエフ(ロシア連邦功労芸術家)

Filarmonia repeticia私は当日フィルハーモニーホールのゲネプロ(最後の会場練習)へ連れて行って頂きま した。入野作品の練習は既に始まっていましたがテンポは遅く、止まり止まりの演奏で私は吃驚しました。後2時間半で本番なのです!これで大丈夫なのだろうか?全てのプログラムの練習が終わったのでロビーに出て総領事館の方々とお会いし、地元のテレビ局の取材があるとのことで総領事館の秘書のナースチャがスタンバイして私を待っていました。インタビューが終わると直ぐ開演です。私は演奏を心配する暇もなく席に付き不案な気持ちで時を待ちました。シンフォニエッタは2曲目です。1曲目の武満徹さんの短い曲「レクイエム」が終わりました。

演奏に先立ちステージでお話しする様にと山田総領事からご依頼を受けていたので、ナースチアと一緒にステージに上がり、以下の様なスピーチを致しました。ナースチャは素晴らしい通訳をしてくれました。

*****

こんばんわ。親愛なる友人の皆様。

私は入野禮子と申します。(ここ迄ロシア語でご挨拶しました。)

東京から参りました。

1990年からロシアと日本の交流コンサートの為に10数回来ておりますが、寒い時期は初めてです。

Orkestr 本日は入野ウラジミル義郎の「シンフォニエッタ」を、彼が生まれた街、ここウラジオストクでロシア初演をして頂けることになったことは至上の喜びです。

指揮者のマエストロ ミハイル・アルカージエフ氏と、実現にご尽力下さった山田淳総領事に心からの感謝を申し上げます。

日本の作品のみによるオーケストラの演奏会は、ウラジオストクにおいて歴史に残る貴重な出来事に違いありません。

その素晴らしい日に、私が参加させて頂けることを大変嬉しく存じます。

<入野義郎とウラジオストクのご縁>

私の亡夫作曲家 Yoshiro Vladimir Irino は、1980年東京で癌のため58歳で他界しました。彼の父親は総合商社「鈴木商店」の支店長をしていたため、彼は1921年11月13日にウラジオストクで生まれたのです。両親はロシア正教会の信徒でしたのでウラジオストクの教会で幼児洗礼を受け、毎日曜日は教会へ行く生活だったと聞いています。私は昨年(2009)10月に彼の生家を訪れ、日露の友人達の協力を得て、生家の前でミニコンサートをした時には感動に涙したのでした。が今日は彼のシンフォニエッタのロシア初演に立ち合うことが出来る喜びで胸が一杯です。日本では「2度あることは3度ある」と言う言喭がありますが、3度目は又どんな素晴らしいことが待っているのでしょうか?

<小管弦楽の為の「シンフォニエッタについて>

この作品は3楽章から出来ており、1楽章は導入部とフーガ(Introduction & Fuge)、第2楽章は主題と変奏(Thema & Variation)、第3楽章はインヴェンション(Invention) です。

1953年に東京で世界初演されたこの作品は、アーノルド・シェーンベルクが理論化した「12音技法」(ドデカフォニー、Twelve-tone technique)により作曲されており、日本で最初の12音によるオーケストラ作品として日本の音楽史上に残る作品です。

DSCN3317 第2次世界大戦の敗戦後、外交官で作曲家の戸田邦雄氏がヴェトナムで捕虜になり、獄中、監視の一人が大変親切で、彼が作曲家と知るとレイヴォヴィッツ著「シェーンベルクとその楽派」(Schoenberg and his School) と言う本を差し入れてくれたそうです。 釈放後それを携えて戸田氏は日本へ帰国し、友人の作曲家達とむさぶるようにして未知の作曲法を学びました。そして12音の技法を使って実際に初めて作曲したのが入野義郎でした。

その2年目前の1951年に作曲した「七つの楽器のための室内協奏曲」( Concerto da Camera for 7 instruments )が日本初の12音による室内楽作品です。

主人が何故シェーンベルクに強く惹かれたかと言うことに関して一つの面白いエピソードがあります。シェーンベルクは13 日に生まれて13日に亡くなりました。主人も13日生まれです。作曲家になる前、シェーンベルクは銀行マンでもありました。主人も銀行マン(旧横浜正金銀行)でした。それで12音技法が自分に合っていると直感し研究したのでしょう。 私は主人が入院中、絶対に助からない病でしたから13日に亡くなるのではないかと思っていましたが、10日後の6月23日に亡くなりました。

シェーンベルクは1951年7月13日に亡くなりましたが、彼から主人へ送られた手紙は5月11日付けとなっています。これは彼が亡くなる2ヶ月前の手紙です。

それらの手紙は現在ウィーンのシェーンベルク記念館で見ることができます。

では演奏を主人と共に聴かせて頂きます。ご清聴有り難うございました。

(2010年11月26日 入野禮子(高橋冽子)Reiko Takahashi Irino

*****

本番は指揮者とオケが一体となった素晴らしい熱演を聴かせて下さいました。

更に感動したのは終演後オーケストラの年配の女性のヴァイオリン奏者が私の所へ寄っていらして「私はミーシャの母です」と大切そうに写真を取り出して見せて下さいました。私はミーシャは良く覚えています。1991年の8月始め(ソ連時代)の

Yamada san 第1回「ロシア・日本音楽の出会い」に出演した小さい可愛いヴァイオリニストのミーシャです。忘れはしません。今はモスクワに居るそうです。その年の12月(ソ連崩壊後)のJMLセミナー入野義朗音楽研究所主催第2回「ロシア・日本音楽の出会い」にも彼は来日しました。他の才能ある子供のピアニストのアクサナは今何処にいるのでしょう? サンクトペテルブルクに居ると聞いたのでサンクトペテルブルクに行った時に調べて見たのですが分りませんでした。私たちは昔の子供達に本当に会いたいです。きっと立派な演奏家になっていると思います。ミーシャのことが分ったことは嬉しい収穫でした。

<私とウラジオストの関係>

夫との25年の間に、彼から毎日の様に聞かされた言葉は「ウラジオへもう1度行きたいなあ!」でした。しかしウラジオは閉鎖都市でしたから訪れることは出来ませんでした。

夫は色々話してくれましたが彼は6歳迄しか居なかったので詳しいことは分らないのです。皆でピクニックへ行ったこと、東洋のサンフランシスコと云われた美しい街であること、冬はご夫人達が入野家に集まって水餃子を食べて花札をしていたこと等々。

ウラジオの日本人は全員強制帰国させられたと聞いています。日本でも浦塩会を作って頻繁に集まりウラジオでの生活を懐かしんでいました。私はその当時の山口総領事夫人からペロシキの作り方を教えて頂きました。今は知りたいことが沢山あるのに皆様残念ながら他界されました。

1990年8月にロシア文学者で当時早稲田大学教授の藤沼貴先生に生徒さん達のウラジオ極東大学のロシア語研修旅行に混じって連れて行って頂きました。閉鎖都市なのに何故入れるのか不思議でしたが、ナホトカ迄船で行き、極東大学の教授と大学のバンが迎えに来て下さり数時間かかって山越え村越えして真夜中に大学に着き、4階の外国人用ゲストルームに入りました。当時は断水、停電は日常茶飯事でした。断水には困りましたがウラジオの人々は明るくどうして平気なのか理解出来ませんでした。

私の目的は語学研修ではなく大の生家を探すことでした。

Vladivo Irinoそれは戸籍謄本に明記してあるマルケロフスカヤ通り5番地です。貴先生は私の為に時間をとって、一緒に街中を歩き回り、年配の人々に何回も聞きながら探して下さいました。なるほど坂の多い街だと実感しました。出発の前に夫の7歳の年上の長兄に覚えていることは何でも良いので聞かせて欲しいと、思い出して貰いましたがやはり中学1年生だったのでしょうか、長い月日が経過していたし彼が思い出して教えてくれたことは、良くパン屋と肉屋に買い物に行かされたこと。家を出て坂を降りて左に行って右に行ってとそんな感じでした。日本人学校があったとか(彼は小学校に通っていたと思います)。家の鉄の門を入ると中庭になっていて馬小屋があった。夜は早めに門を閉めていた。外では毎晩の様に銃弾の音がして怖かったそうです。その程度の情報でした。

私はその様な家と探しましたが多くの家に中庭がありました。

結局、もうその道はスターリンが壊して家を建てて了ったので無くなったと聞かされました。そのショックは今でも忘れません。

ところが2008年のことです。藤本和貴夫先生の調査に寄ればマルケロフスカヤ通りの名前は無くなったがソ連時代にクラスノズナメンヌィと名前が変わり、確かにその道はあり建物も未だ残っていると教えて下さいました。その時の驚きと喜びはとても言葉には言い表せません。早速夫の祭壇に報告し必ず見て来ることを約束しました。APECに向けてウラジオの復興は目覚ましいので壊されないうちに行かなければと気持ちは焦りました。

そして2009年10月に遂に実行したのです。折角行くのなら私が一人ではなく友人達を誘って生家前でミニコンサートがやりたい、又「第16回ロシア・日本音楽の出会い」もやりたいと思いました。

NHKのロシア関係の番組を制作していらした高尾潤氏がこのことに非常に興味を持って下さり、ワシントン支局に転勤になっていらした彼がNHKウラジオ支局長の松尾寛氏に連絡して下さり、空港到着から密着取材をして頂きました。大変嬉しいことでした。ロシアの友人の日本人研究家の第1人者のゾーヤ・モルグンさんをはじめ多くのロシア人友人達が集まって下さり、日本から同行してくれたヴァイオリン、尺八、声楽、ピアノの他に古いロシアの友人音楽家達にも参加して頂き生家前のコンサートは実現しました。山田淳総領事もホルンを抱えて駆けつけて下さいました。生家前でのコンサートは近年の一番嬉しい出来事となりました。88歳で元気な方は沢山いらっしゃるのに、夫が生きていたらと、とても残念に思いました。

日本人散策マップ17番に入れて頂けて私は嬉しいです。

私は全く知らなかったウラジオストクですが今では多くの友人知人を得てとても近く大切な街になりました。大が果たせなかったウラジオとの交流を彼に代わって可能な限り続けて行きたいと心に決めています。

2010年12月26日

NPO法人JML音楽研究所(東京世田谷区) 理事長 入野禮子

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